結構短めで、インターバル的なお話。
やっとと言うべきか、なんと言うべきか。物語が少しずつ始まっていきます。
そんなこんなで、久方ぶりにセニアが主役。
//
その変調に気づいたのは、ある中秋の晩だった。
あの時、自分の義妹が見せた眼差しを、きっと生涯忘れることが出来ないだろう。たとえ一刹那後に潰える命だろうと、これからまた数百年時を刻まなければいけないとしても。それでも、自分の思考が終わるその瞬間まで、きっと忘れられない。
だからこそ、彼はそうしようと決めた。
嘘を、現実にしてしまおうと決めた。夢を、本当にしてしまおうと、決めた。
醒めない夢がないのならば。
夢を、夢でなくしてしまえばいい。
その全てを夢にしてでも。
自分は、やらなければいけないことがあるのだから。
イグニゼム=セニアの朝は、いつだって汗と鋼の錆びた匂いから始まる。
「最近な……どうも、あいつの様子がおかしいんだ」
「……はぁ」
腕を組んだままむっつりと口元をへし曲げているセイレン=ウィンザーからこぼれた言葉に、イグニゼム=セニアは何と返事すればいいのかわからずぼんやりと首肯した。鍛錬中に義兄が無駄口を漏らすと言うこと自体、本来なら思わず彼の額に手を当てて熱を測りたくもなるのだが、生憎自分の両手は剣の柄で埋まっている。
短く、呼気を一つ。その間も体は休まることはない。斬り払った体勢から、一挙動で元の正眼へと姿勢を正す。ぶれていた体の中心線を一直線に修正し、構えを正眼から上段へ。次の手は、なんだったか。ああ、確か、次は。
正直なところ、いくらセイレンから話しかけられたとはいえ、今のセニアに悠長に返答する余裕など欠片もなかった。教わった型を脳内でトレースし、体で実行するのが精一杯。
「まぁ、元が元だから、そう気にはしていなかったんだが――――何と言ったらいいものか」
セイレンのほうもその辺は把握していたらしく、セニアからの反応が芳しくないものでも構わずに言葉を続けた。ひょっとすると案外、これで独り言のつもりかもしれない。
振り上げた両手を、右足と同時に前へと繰り出す。遅れて左足が体に追いつく。下段までは振り切らず、鋭い呼気と共に中段の位置で彼女の切っ先は止まっていた。刃の位置は動かさず、右手の甲を左に回転させた。剣の腹が視界に入る。そして、僅かなタイムラグも置かずに右へと剣を大きく凪いだ。
「そう、元々、だ。いつも、あいつは常に定まらず、水流に流される木の葉のように不確かな印象しかなかったんだ。別にそれを悪いとは言わん。そういう生き方も、いいのだろう。そうあることで周りを安心させていたから、リーダーとして、あいつのことは心休まる友人のように感じていた」
セイレンの声が、何処か遠くに聞こえる。すぐ間近くで自分の型を見ていてくれているはずなのに、その声は彼方から響いてくるかのように朧気だった。意識の認知が間に合わない。まるで、自身が剣になったかのような錯覚に陥る。ここまで集中できたのは久々だ。
今日は体の調子がいい。一つ一つの動作の間に余計な力が入らず、剣の型に篭められた理念が指の先々まで巡ってきそうなほどの充実感。
それなのに、肝心の指南役である義兄は心ここにあらずという感じで言葉を続けていた。いつもの下手な自分の姿ではなく、今日みたいな自分を見ていてほしいのに。
最後の剣が振り下ろされる。これで、二の型は終了。いつもならここで、今までの型の悪かった点の修正を行ってもらうのだけれど――――。
「それがここ数日、何だか妙に何かが定まった印象を受ける。何だろうな、アレは。何かのスイッチが入った、としか言いようがないかもしれん。姿かたちは元より、戦闘に於ける姿勢も言葉遣いも何もかもが変わらないはずなのに、何かが違う、決定的なまでに、何かがずれている」
次、三の型。
ぼんやりと考え事をしていたかのように思っていたのだけれど、こちらの動きだけはしっかり見ていたらしい。言葉を止めて飛んできた指示に、セニアは短く返事をして剣を再び構えた。いったい今彼の意識は、何処を向いているのだろう。
「虫の知らせとしか今は言いようがないのだがな。それでも、何か嫌な予感がする。何かが既に狂い始めてるような、俺たちが見落としている間にがらりと世界が変わってしまったような、何といえば言いのだろう……そんな、薄気味悪さだ。セニアは、そんな感じはしないか?」
下段から斬り上げたところで、ふと声をかけられた。いきなりのことだったので、途中で止めるはずだった剣が慣性の法則に振り回されて大ホームランの軌跡を描く。慌てて右手に力を篭めて剣の柄を押さえつけた。
重心を後ろへ引きながら、セイレンの顔を伺う。正直なところ、自分のほうを向いてくれないあてつけというわけではないが、複雑怪奇な乙女心としてのせめてもの反抗で、話半分にしか聞いていなかったのだ。いきなり話を振られて質問されても、返答に窮する。
何と言い返そう。そもそも、一体何の話だったか。
「セニア、次は左凪だ」
「あ、はい。わかりました」
ぴたりと剣が止まってしまったのが悪かったのか、セイレンから次の指示が飛ぶ。型の手順は全て覚えていたのだけれど、話を思い出そうと思考を巡らせていたら、流石に型をこなすなど不可能だ。セイレンのように、何も考えずとも体が勝手に動くなどと言う常人から外れたことはまだ出来ない。出来はしない。冷静に現在の自分の力を把握できることは、戦士としてはとても重要なことだと理解できている。けれど、それが故に、自分がまだその境地に至れないことが、悔しい。
無我の境地。いずれそこへ、たどり着きたいとは思う。一つ一つ手順を考えなくても、つまりは、どのような戦況でも最善の一手へと体が動くような、そんな剣士になりたいと、思う。
「世界が変わるはずなんてない。変わったのは俺たちのほうなのか。いや、それはない。少なくとも、俺は変わっていない。そう、何も変わっていないはずなんだ。それならば、変わったのは、あいつなのか」
元より、答えは期待していなかったのだろうか。型へと戻ったセニアを見ながら、セイレンはまた言葉を続け始めた。
これでしっかり自分の稽古を見てくれているというのだから、セニアにとって見ればますます微妙な心境になってしまう。
今は、その「あいつ」という人物より、自分を見ていてほしいのに。まだ剣の腕も、精神的にも甘い自分だけれど、それでも、いつかその背中に追いつきたくて頑張っている。結果は、まだ出せていない。自分ですら、自分の剣技に納得できていないのだ。セイレンをうならせることなど到底出来やしない。
それでも、たまには後ろを追いかけている自分を見て欲しいのだ。いつだって、優しさと厳しさと鈍感さしか持ち合わせていない義兄は、自分のことをたまにしか振り返ってはくれないから。今みたいに、彼はいつも他の誰かを心配している。自分といるときさえも。
皆を等しく見れる彼の度胸は、人間として憧れる。けれど、それとこれとは、また少し違うのだ。女の子というものは。
「ゆらりと揺らいだ柳は今、何かに吹かれたかのように何処かへと向かっていく。あいつは」
剣が振るわれるひゅんっという音に紛れて、その言葉だけはセニアの耳に一語一句漏らさずに届いた。
言葉自体に意識を引くものがあったけではない。それでも、セニアは彼のほうへ振り向きそうになってしまった。咄嗟に視線を再び剣へと引き戻す。
何かを想う、何かを憂う、そんな言霊。セイレンの呟きは何の飾り立てもない憂慮に染められていて。
「あいつは――――エレメスは今、一体、何に追われているのだろうな」
彼のほうを見ないように、目を閉じて剣を突き出した。
最後の突きが、終わる。僅かな残心の間に呼吸を整え、セニアは背中まで届く自身の蒼髪を翻して剣を腰の鞘へと納めた。くるりと踵を返して、髪と同色の瞳が捉えるのは、やはり視線を一度も自分から外さなかった義兄の朱い双眸。
胸の前で組まれていた腕が解かれ、セイレンがこちらへと歩み寄ってくる。壁にかけられた時計を見上げると、もう朝の鍛錬の時間の終わりを告げようとしていた。
時計の長針を見て、セニアはセイレンには気づかれないように小さくため息をついた。
朝起きてから、偶数の日の朝食までの時間に行われる二人だけの蜜月のとき。そこには何の色香も恋風もなく、あるのは、額にびっしりとかいた汗から立ち上がる自分の体臭と混ざった鋼の錆びた匂いだけという、女の子にとっては本当に悲惨な現状だ。セニアの親友であるヒュッケバイン=トリスがこの現状を知れば、何と色気のないことだと嘆くだろう。
自分の中にあるこの仄かな恋心は、剣を振るい続ける稽古での汗と、その剣のさび付いた鋼の匂いしか知らない。
それでも、この匂いは別に、嫌いではなかった。
一日、そして、また一日。柄を握る自分の手が、セイレンのそれに近づいていける。ほんの僅かな進歩かもしれないけれど、その一歩は、間違った一歩ではないはずだから。
女の子としては、不服でないと言えば嘘になるけれど。
それでも、イグニゼム=セニアは、この時間がいつも大好きだった。
「兄様」
「ああ、見事だった。随分鍛錬を積んでいたのだな」
セイレンの大きな掌が、くしゃりと自分の髪の毛を撫でた。その感触に、思わずセニアは目を瞑る。何事にも節度を大切にするセイレンらしからぬ、ほんの少し乱暴で、ぶっきらぼうなその掌。この掌は卑怯だと、常々思う。こんな風に撫でられているのが自分だけだと知っているから、今すぐにでも彼に抱きつきたくなってしまうではないか。
なんて、できる勇気なんて持たないけれど。
他の女性にやるような、まるで宝石でも扱うような手つきではなく、本当に心を許してくれているのだとわかるのがとても嬉しい。どれだけ一方通行の恋心だとわかっていても、この瞬間だけは、少しだけ自分と彼の心がつながっているように思えるから。
「もう三の型まではいいだろう。続きは……そうだな、では、いつも通り明後日に」
「はい、わかりました。いつもありがとうございます、兄様」
ゆっくりと右手を離したセイレンは、セニアの言葉に送られてこの修練場を去っていく。ここは、生体工学研究所の、二階部。本来彼が生活すべき場所は、この更に上の、三階部だ。たまには二階部で朝食を食べていってもいいのにと思うのだけれど、きっと彼にも、彼の仲間が作った朝食が食堂で待っているのだろう。
セイレンの掌にかき回された蒼髪を両手で撫で付ける。自分の掌はやっぱり彼ほどの大きさはまったくなくて、それが何だかこそばゆくてセニアはくすくすと笑いをこぼす。
そして、ふと。
彼の言葉を、思い出した。
「そういえば――――」
セイレンの背中が消えた先を見つめる。
あのとき、彼は、何と言ったか。
「――――――――『エレメス』って、どなたでしょう?」
秋は、もう終わりを告げようとしていた。