Story7 Episode1

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 ―――――あたしは、あいつが大嫌いだ。


 生体研究所三階部の廊下を踏み砕かんとばかりに苛立たしげに歩きながら、セシル=ディモンは口の中で声に出さずに呟いた。ブーツと床が鳴り響かせる硬質な音が、元より無音の呟きを更に打ち消すかのように響く。
 長いブラウンの髪が彼女が歩くたびに大げさにウェーブを描く。静かな空気を切り裂くような彼女の怒りは、吊りあがったサファイアの瞳の中に宿り続けていた。そっと自戒するように、セシルは両の瞳をそっと閉じた。
 ため息を、一つ。
 こんな気分の夜は、もう一度シャワーを浴びて眠ってしまおう。当てもなく歩いていた足を、共同浴場のほうへ向ける。夕飯前に皆入ってしまっているので、この時間に突然行っても誰もいないだろう。
 無人の廊下を、靴音を響かせながら歩く。
 腰に吊るした矢筒の中で矢がこすれる音すら耳に残るぐらい、気分が荒れているのだ。起きていても、気分が向上するとは思えない。誰かに当たれば発散もするだろうが、そんなこと、気のいい仲間たちにできるはずもなかった。
 気分を荒立てて不貞寝とは子供らしさもいいところだが、怒りをただ暴発させるよりは幾分もマシだと思った。

 と、思っていたというのに。

「や、やぁ、セシル殿」
「……」

 無視するかのように無言で、けれど、視線は睨み付けたまま、セシルは近づいていく。
 頬に紅葉痕をつけたエレメス=ガイルが、気まずそうな笑顔を浮かべたまま脱衣所の扉に背中を預けて立っていた。エレメスの両腕に巻かれた包帯が、暗い廊下にくっきりとした白さを強調する。瞬間的にあがりそうになった手を、必死にこらえた。自分の両腕を組んで、握り締めた。
 この男は自分がしでかしたことを理解していないのか。いないのだろう。理解しているのなら、自分の頬を平手打ちした相手をこんなところで待ち構えたりするものか。
 そもそも、何故セシルの部屋でなくて、浴場なんかで待っていたのだろうか。既に皆入浴は済ませている。セシルの気が向かなければ、自室とは正反対に位置する場所になど来ないはずなのに。

 そこまで考えて、セシルは苛々としながら胸中で静かに自答した。
 ――――ああ、あたしの考え、全部読まれてるんだ?

「何、してんの」

 さっき起きたことも、ここで待っていたことも、何もかも全てに腹が立つ。苛々する。全てが全て掌で遊ばれている気がして、面白くない。自分の行動とかを把握しているのなら、何故、エレメスはもっと他の事に気を配れない。
 セシルの声は、自然と刺々しく相手を糾弾するような声音になっていた。自分の口から滑り出た硬質な声に、セシル自身、内心で少し面食らう。それを悟られたくなくて、眉を更に吊り上げた。彼女の瞳の中の怒りの炎が、微かに、揺らぐ。

「あ、ああ、拙者はただ、セシル殿に謝ろうと思って―――」
「何で、謝るの?」
「それは」

 咄嗟に返事をして、しかし、エレメスはそこで口ごもる。その仕草で、更にセシルの思考が怒りで沸騰しそうになる。
 わかっていない。やはり、理解などしていなかった。力の加減なしの平手打ちをされて、頬にくっきりと掌の痕をつけられてなお、この男はまったく欠片も理解していなかった。
 ここに来るだろうということは理解できても、もっと大事な、本当に気づいてほしいことは気づいてくれない。
 それが凄く苛々して、ほんの少し、悲しい。

「いいわよ。意味のない言葉なんて聴きたくない。そこ、どいて」

 自分の声から色が完全に消えていた。
 冬の氷より冷たい言葉が、自然と自分の口からこぼれ出てくる。その現実がどうにも信じられなくて、セシルは、顔を伏せてエレメスの顔から視線をはずす。

「そういうわけには」
「いいって言ってんでしょ、どいてよ」
「セシル殿」

 また、理解してくれない。
 語尾を強めて自分の名前を呼ぶ男に、セシルは目じりを吊り上げて伏せていた顔を上げた。

「何よっ、何もわかってないんならもういいでしょっ!?」

 顔を上げた勢いがそれほど強かったとは、自分では思わなかった。
 髪が踊る拍子に、自分の頬に温かい液体が流れるのを感じる。まさか、と思って手の甲で拭うと、手の装飾部が深い黄土色に滲んでいた。頬ではなくて、目をこする。じわりと手の甲が温かくなるのが、セシルの心から激情を少しずつ奪い取っていく。
 何故。何故自分は、泣いている。怒っていたのに。怒っているはずなのに。

 涙を意識した途端、堰を切ったかのようにサファイアブルーの両目から涙があふれ出る。
 エレメスの顔を見れなくて、セシルは両手で涙を拭った。拭って、拭って。それでも涙は止まらない。止まってくれない。泣くことによる悲しみよりも、何故自分が泣いているのか、その戸惑いだけが胸中を巡る。
 わからない。自分の心すらわからない。ああ。それなら。相手にわかれと強要することは、無茶な話というものだ。

 エレメスが自分を見下ろしたままなのに気づいて、無理やり涙を押し込める。何か口を開けば嗚咽が漏れてしまいそうで、セシルは何も言わず、顔を伏せたままエレメスの脇を通り過ぎて脱衣所の扉を開けようとした。
 けれど、脇を越えて右手がドアノブを掴んだところで、左手を握り締められた。エレメスの手の力は、女性である自分の力よりも確かに強い。けれど、手を払いのけようと思えば出来たはずだ。それなのに、自分の足は、自分の体はそこでぴたりと動きを止めてしまった。
 自分の意識と、自分の体が乖離してしまったような、そんな奇妙な感覚。口元が、悲しく引きつる。

 何だ、今の自分の様は。自分のことすら管理できない、そんなだらしない女だっただろうか。
 自分の様がどうしようもなく見っとも無く見えてくる。嫌だ、こんな自分を、自分は認められない。認めてはいけない。初冬の空気が満ち溢れた冷え切った廊下の中、セシルは背筋をぞわりと震わせた。

 エレメスの顔など到底見れなくて、視線は握られた左手からそのままエレメスの腕伝いに動く。
 涙が溜まった視界に映る、真白い包帯。エレメスの手首よりやや上のところで両腕に巻かれたそれは、今でこそ朱の色に染まってはいないものの、少し前までは、マーガレッタ=ソリンでさえ顔を顰めたほどの鮮血が零れ落ちていた。

 自分のせいで、負った、傷。

 腕を動かす度に今もまだ痛いだろうに。エレメスは、自分を引き止めるためにその痛みを我慢して力を込めている。


 ねぇ、エレメス。
 あたしは、あんたにそこまでしてもらうような、女なの?

 
 心の中で、言葉がぽつりと落ちて。
 そして、それが契機だった。

「………っ、ごめん」

 相手が激痛で顔を顰めるのも、わかっていた。それでも、セシルはそれ以上に耐えられなくて。
 エレメスの手を振り切って、脱衣場の扉を開けた。
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by akira_ikuya | 2009-02-11 02:00 | 二次創作


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