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いつぞやのお題、の続きの続きの続き、の続き。

 一ヶ月ぐらい放置していましたが、やっと終わりました。
 終わらせるために無理やり詰め込んだような感じがしないでもないですが……とりあえず、全部一応通しで終わったので、あとはリテイクとかして頑張ります、うす。



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 二人の距離は一メートルもなく、いいんちょは完全にバランスを崩して現在角度六十度。俺は腰を浮かせた体勢なので、正直なところ、こんな角度で突っ込んできたいいんちょを支えれるわけがない。それでも咄嗟に手が出たのは、「ああ、何かこのままこけそーだよな」と内心思っていたからであり、右手は床につけたまま、左手だけを広げてしまったせいで、

「ぐぼ―――ガァッ!?」

 俺の左手はかすることなく、いいんちょは真正面から俺の体に突っ込んできた。

「あ!? ご、ごめん!?」
「――ぃ、つぅ……い、いや、大丈夫」

 いいんちょが俺の体を支えにして、慌てて俺を仰ぎ見た。その視線を受け、俺は下を向きながら大きく息を吐いてかろうじて声をひねり出した。
 大して痛くはなかった。うん、痛くなんてない。痛くなんてないさ。
 たとえ、突き出したいいんちょの右手が鳩尾に、左手が腹部にめり込んだからといって、所詮は女子の体重。痛いわけなんてない。二秒ほど完全に呼吸が止まったけど。そしてその勢いのまま、完全に押し倒される嵌めになって後ろの壁(築云十年の鉄筋コンクリート)に頭打ち付けてゴィンとか響き渡ったとかきっと幻聴だ。思わず何か変な機械音みたいな悲鳴があがったとか、きっとそれも幻聴だ。涙目になってるのなんて気のせいだ。
 ただ、上に乗っかってるのがいいんちょじゃなくて佐枝辺りだったら、倒れ掛かってくるのを容赦なく蹴りで迎撃していただろうけど。野郎の体重で鳩尾プレスなんてされたら洒落抜きで吐く。

「で、でも、何か凄い音したよ?」
「幻聴だ幻聴」

 いいんちょにしては珍しく、何か妙に弱気な声で俺の顔を覗き込んだ。そんないいんちょを視線であしらいながら、後頭部を触ってみる。恐る恐る触ってみたのだが、指先が触れた瞬間に脳みそに走った痛みに俺は思わず顔を顰めてしまった。
 あ、こりゃ完全にコブができてるわ、とわかる膨らみが一つ。しかも結構大きい。幸い出血などはしていないようだが、ずきずきと熱を持って今も疼いていた。鳩尾と腹のほうはいいんちょがすぐに手を離したおかげで一過性なものだったが、後頭部のほうはしばらく痛みがあるかもしれん。

 ……痛くなんてないぞ?

「ちょっと」
「あん?」
「触るね」
「お、おい、待―――っつぅ」

 顔を顰めたのが悪かったのか、いいんちょは俺の胸板に手を突いた状態で身を乗り出してきた。俺がとめる暇もなく、俺が触っていた右手の横をゆっくりと指先でなぞられる。患部を触る勇気がなかったのか、それとも俺の右手が邪魔だったのかはわからない。

「……これの何処が大丈夫なのよ。え、どうしよう……」

 けれど、いいんちょにとって見れば患部を触るまでもなかったのか、それとも外周だけでも十分隆起してるのがわかったのか。いいんちょはいつも逆立てている眉を情けなく八の字に変えてしゅんとうなだれた。なんつーか、こんないいんちょを見るのも珍しい。これがあの先生相手でも噛み付いていた座敷犬なのかと思ってしまう。

 ただ、うん。まぁ、何ていうか、アレなわけですよ。確かに後頭部は思わず俺を半泣きにさせるぐらい痛いし、秋の夕暮れの空気はロングTシャツ一枚の俺にとってみれば寒いわけだし、ついでに野郎に乗られるよりは多少軽いとはいえ、人一人が俺の体の上に完全に乗っかってるわけだからそこそこ重いわけだけど。

 ……なんつーか、色々悪条件出して落ち着かないと、とてもじゃないが平常でいられないシチュエーションなんですが。今。思わず敬語にもなってしまうわけでして。
 相手が飴なのは我慢しよう。そこは贅沢を言っても始まらない。しかし、女子が、今、俺の体の上に覆いかぶさって……つか、本当にそれこそ座敷犬のようにちょこんと乗っかってるわけでして。おまけにそれが俺の後頭部をさすりながら、しょんぼりと八の字眉毛で途方にくれているときた。いいんちょが乗ってる部分が温いし、さすられる後頭部がむず痒い。学ランを被せたときに感じたいいんちょの小ささが、ますます実感を持って俺の脳髄を否応がなしに刺激した。
 ああ、くそ。いつも憎たらしいだけのはずだったいいんちょの切り札としては正直もったいなさ過ぎる。明日雪でも降るんじゃねぇのか。むしろ降ってくれ。これが鬼の霍乱だか天変地異だかの言い訳にできるように。

 いいんちょの顔は俺の首筋辺りに。そして俺の鼻先にはいいんちょの黒いお下げが。
 まるで何かに誘われるように、俺は少しだけ頭を傾けた。少しだけ埃臭さが混じった柔らかい匂いが、俺の鼻先をくすぐって、

「―――っでっ!?」
「え、あ、え!? ちょ、ちょっと何で急に頭ずらすの!?」

 頭ずらしたのが悪かったのか、今まで外周を回らせていただけのいいんちょの手が思いっきり患部へと直撃した。元々患部には触れない予定だったのだろう、その手は極自然に患部の真上を通過し、油断しきっていた俺に激痛を持たしてくれた。ずきずきと走って痛みが、今じゃびりびりとしたもはや感電したかのような刺激に変わっている。
 まぁ、おかげで。目は覚めた。

「ったぁ……つか、いつまで乗ってんですか、コラ。重いからさっさとどきなさい」
「何よその言い方!? 女の子に重いって酷いわよ!」
「うっせ。たとえ男だろうが女だろうが犬だろうが猫だろうが五十キロ超えりゃ十分重いの」
「っ、失礼ね、五十もない!」

 いいんちょの声を受けて、いいんちょを見下ろす。ぺったんこ。

「ああ、そうか。そりゃないだろうな、すまんかった」
「―――っ! 何処見て言ってんのよー!?」
「ってぇ!?」

 すぱーんといい音鳴らして俺の顔が右を向く。
 うむ、ナイス平手だ。いいんちょはそうでなくちゃな。だが、お前は頭怪我してる人間に向かってよく顔に攻撃できるな。

「お前はもう少し怪我人相手に手加減ってのはできないのか」
「うっさい! それならあんたも、もう少し女子相手に気遣いってのはできないの?」
「へぇ、じゃあ」

 何かもう、すっかりいつものいいんちょに戻ったらしい。今の平手ですっかり本調子に戻れたか。それならば問題ないなと、もみじ跡でもできてそうな頬をさすりながら、俺も安心して反撃することにしよう。
 にやり、と口端に笑みを浮かべて軽口をたたいた。

「気遣いしてない野郎相手に、お前はいつまでも上に乗っかってられんのか?」
「え……ぁっ」

 言葉の意味することを理解できたのか、いいんちょは顔を真っ赤にして慌てて俺の体から降りて自分が座っていたマットへと戻っていった。お下げが俺の目の前を半円を描くようにして翻り、さっき微かに香った埃とも似つかないいいんちょの匂いが鼻先から消えていく。いいんちょがくっついていたせいで温かかった腹部は、ほんの少しの寂しさと共にあっという間に熱を奪われていった。

「やれやれ」

 いいんちょが上にいたせいで崩れたバランスのままだった体を、改めてマットの上に横たえる。後頭部がずきずきと痛むので、さっきみたいに腕組みはできなくなったけれど。

「で、だ。お前、練習するっつったって誰が監督するんだよ」
「は? 何言ってんのよ。あたししかいないじゃない」
「……お前、できんの?」
「練習きてないあんたは知らないだろうけど、全部あたしが見てるのよ? 身近にモデルやってるのがいるんだし」

 耳慣れない単語が出てきて、俺は思わず目を丸くしていいんちょを見やった。

「いや、おい、それ自体初耳だぞ。何だ、カレシがモデルやってまーす、とかいうオチか?」
「ばっ……バカじゃないの! カレシなんていないわよ!」
「何でそこまでむきになって否定するのかわからんのだが……普通いないことをむきになって否定しねぇ?」
「うっさい!」

 何でか顔を真っ赤にして必死に声を荒げたいいんちょは、最後にぼそっと何かを呟いて俺から視線を外した。俺に向けて言葉にしては到底聞き取れる大きさでもなく、まさに独り言、といった感じだったのだろうか。ふん、という擬音が似合いそうな表情でそっぽを向いたいいんちょへと、俺はかける言葉を少しだけ見失う。

「モデル、ねぇ……男の立ち練習ってことだろ? 妥当な線だと思ったんだがな」
「カレシいるなら、こんなに忙しくなんてできないわよ……」
「ああ、それもそうか」
「お兄がやってんの。まだ雑誌ぐらいとかに時々でるぐらいだけどね。時々教えてもらってるし」
「お兄って……なんだ、お前兄貴いたのか」
「うん、上に三人」
「三人!? 末っ子?」
「そう」
「普通末っ子って甘ったれに育つって聞いたんだが、何でこんな凶暴に……あ、いや、大体想像はついた」

 どーりでパンチとかが無駄に強いわけだ。
 ありゃ絶対、兄貴相手に毎日格闘してるな、うん。

「あんた、何一人で自己完結してんのよ」
「いや、あのパンチは女子じゃ出せねぇよなぁとしみじみ思っていたんだ、毎日」
「……後頭部、殴っていい?」
「明日の朝刊に殺人者として載りたくないならやめとけ」

 冗談じゃない冷たい響きを言葉に感じて、俺は思わず後頭部を隠して座りなおした。寝そべっていたのはいいんだが、後頭部をつけれないのはどうしても居心地悪い。さてどうしたものかと考えていたら、さきほど目に映った跳び箱があったのでそれに背を預けて、いいんちょと向き合うようにして座る。
 いいんちょは、マットの上に尻を乗せて、足を抱え込むようにして座っていた。

「黒岩は?」
「ん?」
「兄弟とか。あたしばっか喋ってるなんてずるい」
「いや、何がずるいのかはわからんが……別に普通だよ。妹が一匹」
「匹ってあんたね……」
「冗談で露骨に引くなよ。軽いジョークだジョーク」
「とりあえず兄妹仲が悪いって言うのは理解できたわ」
「そーでもないと思うけどな。他のとこよりは仲いいつもりだぜ」

 主に付き纏られているだけだが。

「へぇ、ちょっと意外」
「何がだよ」
「面倒見いいんだなぁ、って。いつもだるそうな顔してるのに」
「ぶっちゃけだりぃよ。でも、俺の周りうろちょろすんだから仕方ねぇだろ」

 げっそりしながら俺はため息をついた。年の差は三つ。普通に思春期迎えて、異性の家族を毛嫌うはずのお年頃なのに、一行にその気配がない。それどころか、未だに何かに事つけてあれこれと俺に付き纏ってくる。猫みたいなヤツなので、匹という表現は俺の中であながち間違えでもない。
 冷戦状態になるよりはそりゃマシなので、本気で拒絶してない俺も俺なのだが。

「ふーん。優しいんだね」
「……優しい、のかぁ? 正直よくわからん」
「わかるよ。あたし、妹だから」
「あー、はいはい、そういうことか」

 いいんちょの兄貴と俺を比べられても、実際のところわからんとは思う。俺だって俺の妹といいんちょを比べて、それで兄弟間についてあれこれと言えるかと言われたら閉口してしまう。兄貴さんの性格を知らないし、第一、うちの妹はそんな暴力的じゃない。
 ただ、それでも目を細めて笑ういいんちょを見ると、ここを暴かれたときのような減らず口は自然と鳴りを潜めてしまった。ああ、糞。どうしちまったんだよ、俺の思考回路。あれか、埃被ってショートでもしたのか。いいんちょのお下げを箒代わりに埃を掃除してもらいたいもんだ。

「……」
「……」

 気がつけば、お互いに再び口を閉ざしてゆっくりとした空気に身を浸していた。
 突然、というわけではなかったと思う。会話が終わるときは、いつだって自然な流れで終わることのほうが多い。そりゃ、喧嘩でもして黙りこくってるなら唐突に終わるだろうけど。
 天窓から弱弱しく差し込んでくる夕陽が、空気中を漂う埃に反射してカーテンのように朧に浮かんでいる。
 そんな中で、俺たちはやっぱり何も言わないまま、ただ静かに座り込んでいた。俺は跳び箱に背を預けて、だらしなくマットの上で両足を崩し、いいんちょはマットの上にちょこんと座り込み、立てた膝に顎を乗せて。

 一度目の沈黙のときより、空気がゆっくりと流れている気がする。
 気まずくなったわけじゃない。少なくとも俺は、いいんちょがここに突撃したときに感じた邪険は消えているし、少しだけ目を伏せた表情で座っているいいんちょも嫌がってはいないと思う。

 二人の距離は、三十センチも、ない。
 俺はぼんやりと傷に障らないように体を崩し、いいんちょは俺の学ランを羽織ったまま薄く目を伏せて。

「……はぁ」

 俺はゆっくりとため息を吐き出すと、脳裏に少しだけ浮かんだことを打ち消した。
 二つのマットの間に差し込んでいたオレンジ色の射光が、段々とその光を弱めていっていた。ここに閉じ込められてから、気がつけばそれなりの時間が経過しているようだった。外は若干薄闇が混ざり始め、この体育倉庫の中もまた少し肌寒くなった気がする。ロングTシャツ一枚だけなので、そういう寒気には機敏に反応するのが余計に嫌だった。

 光源なんて存在しないため、夕陽が落ちれば自然と体育倉庫の中が薄暗くなっていく。もうすっかり鼻が慣れてしまったのか、薄くなった埃臭さと相まって無意味に退廃的な雰囲気に変わってしまった。いつもはここまで長居しないため、ここ一週間居座っていた体育倉庫が急に余所余所しく感じてしまう。初めて感じる体育倉庫の空気に、少しだけ俺は身構えた。

「おい、いいんちょ。そろそろ真面目に出る方法考えないとやばいんじゃないのか」
「……」
「……? いいんちょ?」

 俺の声が体育倉庫に低く反響する中、いいんちょの声が返ってこなかった。その沈黙が体育倉庫の退廃的な雰囲気を更に冗長する。秋の夕陽は、光だけは強いものの落ちるときになれば一気に落ちていくため、さっきまでは多少弱まっただけに感じたオレンジ色の射光は、今ではもうほとんど差し込んでいない。
 体育倉庫に置かれているもの全てに影が差す。セピア色に写っていた光景は、あっという間にモノクロなこう計へと様変わりしていた。

「……まさか」

 嫌な予感がして俺は腰を浮かせた。女性は体を冷やしやすい、とよく聞く。いくら性格が女っぽくないからといって、生物学的上女性と分類されるいいんちょもその類に漏れないのじゃないか。もしかすると、体を冷やしたせいで風邪でも引いて熱が―――。
 呟いた声が、暗い空気に触発されてか反響する響きが強くなったように感じる。頭に浮かんだ一抹の不安をお抱えて、俺は体を伸ばしていいんちょへと近づいた。

「おい、いいんちょ、大丈―――」
「……すー」
「―――ぶ……か?」

 何か、変な呼吸音が聞こえた。

「って、おい、まさかお前寝てんのかよ」

 なんつーか、閉じ込められた当初慌てふためいていたお前は何処へ消えたよ。
 両肩をがくりと落としながら、思わず俺はうなだれた。人が心配してあげたというのに、当の本人は膝に顎を乗せたまま完璧に眠り込んでいたのだ。声をかけても反応がなかったのは単に眠りこけてたからだろう。こうやって近づいても起きないというのを見ると、完全に寝入っているらしい。

 ……まぁ、そりゃ、眠くもなるよな。疲れてるんだろうし。
 普段から放課後は文化祭実行委員会の激務に追われ、クラスはクラスで立ち練習の稽古監督やって、更には俺みたいな逃亡者を追いかけてこんな体育倉庫まで来て。んで、知らなかったとはいえ自分の不注意でここ閉じ込められて。変に糞真面目だったから余計に精神的に疲れたんだろうけど。
 だからっつって、男子生徒の前で平然と眠りこけるなよ、バカ。

「おーい、起きろー」

 眠ってる女子を触るのは何か道徳的に色々まずい気がするが、流石に今はそんな悠長なことを言ってられない。眠らせておくと朝まで起きなさそうな気がするし。とりあえず、起こしとこう、うん。

 そう思って両肩を軽く揺すってみるも、起きるようなそぶりを見せるどころか、顔は完全に熟睡してますと言った感じに弛緩しきっていた。いつもはVの字につりあがっている眉毛は形を崩し、怒りの炎を燃やしている両目は閉じられてへにょっと垂れていて。開けば文句しか言わない口は薄くあけられ、無意味に人様の鼓動を早くさせやがる。ああ、くそ、静まれこのバカ煩悩が。

 と、まぁ。俺にこんなトチ狂ったことを思わせれるぐらい、寝顔っつーのは凶悪な武器であるわけで。普段からこうしてりゃ、ちっとは可愛く見えるのになと思わなくともない。本人の前では口が裂けても言いたくはないが。

「ったく、本気で眠りこけてやがるのかよ……」

 いいんちょの両肩を掴んでいた俺の両手に、僅かに力が篭る。いいんちょの両肩は力を抜いたままだらりと下がり、学ランの袖で隠れた両の手は足の前で組まれていた。掴まれた反動か、いいんちょの肩が少しだけぴくりと動いた気がする。俺は、いいんちょの前にかがみ込んだ。

 ちらちらと、脳裏で今日一日のことがフラッシュバックする。いいんちょから逃げるために体育倉庫でだらだらしてて、見つかって―――口やかましい座敷犬みたいなヤツだという認識しかなかったはずのいいんちょ像が、めまぐるしく変わっていった一日。今までなんともなかったはずのモノの価値が、一気にがらりと様変わりしてしまった、一日。
 埃臭い体育倉庫、おまけに天窓からの光は落ちてほとんど真っ暗に近いこの最悪のシチュエーションの中で、

「どうかしちまったのかな、俺」

 瞼を閉ざしたいいんちょの顔が間近に映る。今、自分が何をしたいか、なんてことは、もはや隠し切れないほど明確になっていた。その感情はどうしようもなく一方的で、ばれたら半殺しじゃすまないだろうな、なんて嫌に冷静に思えてしまうほど。
 ちかちかと目の前が点灯する。認めたくないと意図的に蓋をした思考の渦が、津波となって押し寄せてくるような、そんな感覚。

 いいんちょの顔に、俺はそっと自分の顔を近づけて、


「―――やっぱだめだ、無理」


 次へのステップを踏めなかった俺は、いいんちょの両肩を掴んだまま、そんな風に呟いた。へたれと笑うなら笑え。いきなりキスだなんて普通はできない、無理。確かにおいしいシチュエーションだとか据え膳食わぬはとか色々言うが、こちらとてまだ17のガキなわけですよ。おまけに相手は寝てるし。お互いに好きも嫌いも言ってないわけだし。

 ―――つか、何血迷ってキスしたいなんて思ってしまったんだか、俺は。

 俺はがくりとうな垂れて、妙に切羽詰っていた思考を削ぎ落とすように大きくため息をついた。一度こうなってしまえば、後は楽である。目の前十センチの距離にいる眠りこけたいいんちょを、どうやって起こすか考えよう。ここはやっぱりオーソドックスに頬をぺしぺしとたたいてみるべきか。

 なんてことを考えながら。

 冷静になっていれば、俺は正気に戻った途端にまずいいんちょと距離を置いていただろう。顔を近づけたまま起こそうなんていうことは考えなかったはずだ。やはり俺はまだ何処か冷静じゃなくて、必死に冷静にしようとして逆にてんぱってたんだと思う。
 何故なら、


「あ? 鍵かかって―――あ、普通に開くじゃん」


 という言葉を、綺麗に聞き流してしまっていたのだから。
 最後の「じゃん」の部分だけ聞き取れた俺は、多分物凄く間抜けな顔をして扉のほうを振り向いたのだろう。ちょうど扉が開くタイミングで振り向いた俺を、扉を開けた主はきょとんと目を剥いて俺を見つめていた。

「―――何してん、クロ」

 佐枝だった。
 ギガガッ、という金属のこすれる音がして、俺といいんちょを長いこと閉じ込めていた扉は随分とあっけなく開いた。扉の向こうもやっぱり夕闇に包まれていたのだが、よく見知った級友の顔は流石に見間違えなかった。

「な、んで、お前」
「いや、ここかなーと思って迎えにきたんだけど……」

 かすれた声の俺に、佐枝は一度言いにくそうに言葉を切った。佐枝の視線がとある一箇所に固定されている。俺はその視線を追って――――いや、追うまでもなく、既に予想はついていたんだけど。

「……邪魔だった?」
「死んでしまえ」

 いいんちょが俺に投げつけてきたあの黒い物体を、俺は遠慮なく佐枝の顔面に投げつけておいた。
 何か背後で、「バカ」とかいう言葉が聞こえたような気がしたが、やっぱりいいんちょはまだ眠ったままだった。
by Akira_Ikuya | 2006-12-27 14:21 | 一次創作


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