Scene30 - 3

 今回の前段は、本当は前の作品の一番下にくっついてたんですが、「文字数7000もオーバーしてんだよさっさと消せや糞虫が」とエキサイトに怒られたのでなくなくこっちにつけたしました。おかげでこの糞恥ずかしいシーンをよりにもよって一番上に乗せないといけないこの公開処刑。もうまじはずかしい。

 そんなことで、そろそろ過去編も終わり。「彼女の右手は銀貨を放す」。



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 亜人たちの数が無限でなかったことを、まずは喜ぶべきだろう。年がら年中繁殖期である人類と違い、決まった季節にしか新たな生が生まれることはない種族なのでいつか底は尽きるだろうと思っていたが、よもや一年を越そうとは、現場の騎士兵、そして騎士団幹部を含め誰も想像がつかなかった。生誕からわずか三月もすれば槍を持ち前線に立つ亜人の種のスピードを甘く見たわけではないが、ちょうど繁殖期をまたいでの攻防になったせいでこの戦いの佳境を迎えるのに一年と二ヶ月をかけてしまった。

「……、ふ、はぁ」

 だらしなく椅子の背もたれに背を預け、顔にぬれた手ぬぐいをかけて空を仰いだ。自身の長く流麗な菫色の髪は、今はだらしなく重力に従って背もたれの後ろで揺れている。ひんやりとした感触が心地よく、両目を閉じて僅かな休息をむさぼろうと、セニアはただひたすらに自堕落を追求しようとしていた。

「あー。あーあーあー」

 ここ数ヶ月は死に物狂いだったため、若干頭の螺子が取れてしまったのかもしれない。新兵が見ればすわ新病かと疑いかねないようなうめき声のようなものを上げて、セニアは頭を揺れ動かした。そのたびに髪の毛がぶらぶらと波うち、今度は新病ではなく新たな魔物が闇から引きずり出されたのかと一刀に伏せられてもおかしくない光景が続く。王位第三継承者の肩書きも、プロンテラ騎士団副団長の名誉も、何もかもまとめてゴミ箱へ投げ捨てたかのような醜態であった。
 さもありなん。この戦の間に十九の誕生日を迎え、この十九年間、ひたすらに剣を振るうか、王位継承者の端くれとして帝王学を学び続けた命である。僅かな息抜きもなく、休暇などはただの体のメンテナンス用の日と言う有様だった。それが故に、こうやって長い間にも及ぶ戦が終わりを迎えようとしている唐突な空白期間の過ごし方など、彼女は知る由もなかったのだから。

「……飽きた」

 だが、それでもこの様はあんまりだろう。
 彼女も今の自分の情景を思い描くだけの理性が残っていたのか、ヘッドダンシングを止めてぽつりと呟いた。誰もいないこの空間で少し戯れただけだ。後もう五分もしたら、詰め所を出て今日の最後のブリーフィングを行った後第五連隊へ指示を出して夜警と交代人員の発表を――――。

「何だ。もう終わりかい?」
「――――うぇっ!?」

 素っ頓狂な声を上げて、思わずセニアの顔が跳ね起きた。手ぬぐいは空中をひらりと踊り、いきなり上体を越した反動か、椅子がぐらりと揺られてそのまま椅子から転げ落ちそうになる。慌てて机の上に両手を叩きつけて、倒れ転げた椅子から離脱した。

「ふっ、はははっ、何だ、セニア。急に」
「きゅ、急なのはセイレン様のほうじゃありませんかっ!」

 空を舞っていた手ぬぐいがセイレンの眼前を泳いで足元に落ちる。その手ぬぐいを拾い上げて、セイレンは可笑しそうに笑みをこらえながらテーブルの方へやってきた。指揮官用の詰め所のため、セイレンがやって来てもなんら問題はないのだが、まだ修練場に出張っているとばかり思っていた。既に鎧を脱いで軽装になっていたセイレンを見るに、もう全ての業務を終えて戻ってきたのだろう。
 先の醜態に対する恥ずかしさを隠し切れず、わたわたとしながらセニアは直立不動の体勢でセイレンと相対した。かちんこちんに固まったセニアを見やり、頷くように顎に手を添えた。
 ここ一年と少し、常に自らの隣にいて、必死に頑張り続けてきた彼女の姿と、副団長となって初めて詰め所に訪れたときのように固まっている今の姿がどうしても重ならない。それでも、そのぶれが何故かとても愛らしくて、セイレンはくしゃりとセニアの髪に手を差し込む。セニアは突然のことに片目を閉じて、自分より幾分も背が高い彼を上目遣いで見上げた。

「……な、何ですか?」
「いや。何。セニアもそういうことを恥ずかしがるんだな、とね」
「あ、当たり前ですっ! というか、ですね、私だって、いつもあんなことをしてるわけじゃなくて、その、気が、緩んで」
「はは、そうか、そうだな。……よく、頑張っていたからな」
「セイレン様……?」

 零れた言葉の色がやわらかくて、セニアは思わず彼の名を呼んだ。しかし、彼は言葉では返さずに彼女の頭を撫でる。前髪の隙間から彼の表情を見上げるも、いつもの優しい笑顔を浮かべているだけで表情の意図が読めない。セイレンの意図がわからず、しかし、彼の掌の感触が心地よくて、セニアはもっと撫でろと言わんばかりにセイレンに一歩近づいた。
 その意図を察しているのかいないのか、セイレンはぽんぽんとセニアの頭を叩くと、彼女の髪を梳くようにして手を離した。セイレンの指に自身の髪が絡んでは離れていく様を、セニアは名残惜しげに見送った。

 そして、自然と、言葉が口をついて出た。

「もう、終わりですか?」

 はたと気づき、セニアは咄嗟に唇を押さえる。一瞬の自失の後に彼女を襲ったのは、先の醜態とは比べ物にならないほど大きな羞恥心だった。自分の言った言葉が、その意味が、何から何まで恥ずかしくて彼女はその場に俯いてしまう。とてもではないが、セイレンを見上げる勇気はもうなかった。
 そして、呟きにしては大きくて、独り言にしては強烈な意味を持った言葉を受けたセイレンは、双眸を見開いて眼下の彼女を見下ろした。

「……」

 一呼吸。セイレンは今の言葉を咀嚼するように天井を見上げ、再び顎に手を添えてセニアを見下ろし、ぽりぽりと頬を掻いた。よくよく見てみると、俯いているだけではなくてセニアの体が僅かに震えている。困ったなぁ、と、セイレンは胸中で一人ゴチた。女性のこういう仕草にはとことん縁のない生活を送ってきただけに、プレッシャーが自分の双肩にどんとのしかかる。縁談の話は家系上、毎日のように送られてくるものの、全部断ってきたのが仇となったか。未だに女性という寓話のような存在が、どうにも彼は苦手であった。胃が微かに悲鳴を上げて、きゅぅと喉が鳴るような錯覚を覚える。
 それでも、この胃の痛さはいつもの業務に比べても、他の女性と接するときの苦しさよりも、何処か甘い感じがして。セイレンは、セニアに請われるがまま、再び彼女の頭に手を触れた。触れた瞬間、セニアの体が小さく跳ねたが、それでも構わずにセイレンは菫色の髪の毛をできるだけ乱さないように、優しく彼女に触れる。

「珍しいな。セニアが、そうやってねだるとは」
「ね、ねだった、わけじゃ」
「そうか? ……君がそう言うなら、そうなんだろう」

 深く言及はせずに、セイレンはそうやって微笑んだ。セニアの頬に朱が射して、為されるがままに彼女はまた俯いた。

「それに、そうだな。考えてみれば、一度もないのかもしれないね。君が、そうやって私に言ってくれるのは」
「……え?」
「指南役として五年、この任務で一年。それだけ一緒にいたのに、何のお願いもされたことがないと、思い出してな」

 十年ほど前に、指南役としてセニアに剣を教えるとなったときは、相手が相手なだけあって腫れ物に触るように接したことは記憶にある。そんなセイレンに対して、セニアは意に介さず、八歳の少女にしては不気味なほど落ち着いた佇まいで粛々と教わっていた。それから一年、二年と時が経つにつれて、セイレンは少しずつセニアに対して、一人の騎士見習いとして修練を見るようになった。
 それでも、セニアは頑なにセイレンと距離を置き続け、ようやく笑みを見せたときは、もう指南役として最後の半年を切った時期だった。笑みを見せる、という、そんな単純な心の触れ合いでさえ四年半を費やしたのだ。何かをねだられることは勿論のこと、頼られることも、頼まれることも一度たりともなかった。

 そのことが心残りではあったが、任を解かれてしまったが故に自分と彼女の距離は大きく開いてしまった。
 いくら自分が名家の生まれとはいえ、相手は王族の第三子だ。おいそれと近づくことも、当然、話しかけることすらも周りが許さなかった。たまに剣の修練で鉢合わせ、彼女の面倒を見ることもあったが、騎士団の先輩、後輩、という立場が崩れなかった。

 この一年間。彼女は笑みを見せるようになっていたし、様々な心の機微を伺うこともできた。人間として成熟し、騎士としても立派に成長を遂げていた。この防衛戦も戦果を上げ、当初は彼女の能力に疑問の声や妬みの眼差しを向けていた騎士兵たちも、今ではセニアのことを姫ではなく、副団長として尊敬の念と、一定以上の信頼を預けているのも、知っている。
 それほどまでに成長していた彼女の姿を、彼は誰よりも嬉しく思っていた。教師と生徒、先輩と後輩、そして、上司と部下。一定の上下関係で、そしてセニアの成長を喜ばしく思うがあまりに、完全に失念してしまっていた。セイレンだからこそ、気づけなかったのかもしれない。
 彼女が、誰にも甘えることも、助けを求めることができなくなっていたことを。

「君は、私の教え子であり、後輩であり、そして、部下だ。……そして、私の片腕であり、パートナーだ。だから、そうだな、こういうとき、どう言えばいいのかは、私も経験がないので、よくわからないが」

 すっと腰を屈め、セニアの目線に合わせる。セニアは、セイレンの顔を、じっと見つめていた。
 胃が引き絞られるような痛みを発したが、それでも構わず、セイレンはセニアの頭を撫でながら、言葉を続けた。

「私は、君を信頼している。君は、私に心を開いてはくれるかい?」
「わ、私、は……っ」

 対するセニアは、即答ができなかった。
 心を開いているか? 開いているに決まっている。心を開きたい相手だと、ずっとずっと思い続けていて、そして、ずっと慕ってきたのだ。その思慕の情を数えて十年だ。心を開いているに、決まっている。
 それでも、セニアは答えることができなかった。返事をすることが、できなかった。
 自分の心の中なのに、セニアはその気持ちを言葉にすることができない。感情を言葉にする術を、知らなかった。
 王位第三継承者は、騎士団へと入団し、剣の道を修める。第一継承者は当然王の後を継ぐために帝王学を学び、王たる者としての教育を受ける。第二継承者は、第一継承者の後を追いすがりながらも、同等の教育を学び、同等の道を進む。第一継承者が敷かれたレールの上を踏み外した場合、滞りなくそのレールの上に乗せれるスペアとして。
 そして、第三継承者は、そのレールの上に乗せられることもなく、王族の権力の誇示のために騎士団へと入る。昔は継承者たちを傀儡とした権力争いなどが激化したため全ての継承者に王位を継ぐ可能性が残されていたが、各国との争いすらなくなった現代で、そのような権力争いも鳴りを潜め、第四継承者以降は王位を望めない代わりに、それなりに自由な生活が与えられていた。

 王の後が約束された第一継承者に、そのスペアである第二継承者。
 誰からも期待をされないけれど、その後の人生の自由を約束された第四後継者以降。

 その間に挟まれ、自由も未来も与えられず、ただ剣の道のみを与えられた第三継承者。
 そんな自分に、感情など、思慕の情など、本来は不必要なものだったはずだった。こうして言葉にすらできない、伝えることすらできない感情ならば、要らなかった。必要だと思いたくすらなかった。

 言葉が痞えて、その想いすら吐露できない。
 この一年、セイレンに認められるために必死に足掻いてきた。それでも、結局その軌跡は、それまでの十八年間の軌跡の前に踏み潰されて、

「私はっ!」
「……急くな、セニア」

 振り絞った声に、セイレンの声が優しく覆いかぶさる。気づけば俯いてしまっていた顔を上げると、そこには、先程までと寸分変わらない穏やかな顔をしたセイレンが待っていてくれていた。

「私は、君の言葉を待つよ。急かなくていい。いつか、君の言葉で。きちんと伝えてくれたらそれでいい」

 自分の言葉がセニアを困らせていたと、気づいたのだろうか。
 セイレンは、突き放したように聞こえないように、細心の注意を払いながら言葉を紡ぐ。
 自分と同じぐらい不器用な部下が。自分よりも一生懸命な後輩が。自分よりも強く在ることを義務付けられた教え子が、その心に押しつぶされてしまわれないように。

「だから……そうか、そうだな。ああ、私は、こう言いたいんだ」

 くしゃり、と、再びセニアの頭を撫でる。
 セニアはむず痒そうに、甘えるように、セイレンの掌に擦り寄った。セイレンの掌が、セニアの頭から頬へと滑り落ちる。

「私は、君の困った顔を、見たくないんだ――――約束だ。そのためなら、どんなことでも、しよう」

 びっくりしてセニアはセイレンを見やる。
 セイレンは若干照れたように笑って、それでも、セイレンの笑顔はぎこちなかった。セニアの頬を撫でるセイレンの掌に、汗が滲んでいるのを感じる。――――ああ、彼も緊張していたんだ。そのことに気づいて、セニアは少し可笑しくなった。

「……そうです、か。ふふ、では、たまには困ってみることに、してみます」
「……はは、そうか。それは、困ったな」

 急くな、と言ってもらえた。
 いつか、と待ってもらえた。
 どんなことでもしてくれると、約束してくれた。

 そのことが嬉しくて、胸の底がふわふわするように暖かくて。
 セニアは、セイレンに向けて、微笑んだ。

「ありがとう、ございます」








 防衛の任務も終え、後は月に数度、事後処理といまだ現地に残っているバードナー第五師団師団長との話し合いや作戦会議に顔を出す程度となったセニアは、久しぶりに自らの居城へと帰ってきた。出陣のときは初夏だったというのに、季節は一回りをした上に、もう秋の風が吹いている。開け広げた廊下の窓から、鈴虫の音色が宵の風に乗せられて届いてきた。

 久しぶりに心落ち着く夜だ。
 セイレンに認められたあの日から、セニアは少しずつ心に余裕を持つことができた。一人の時間を落ち着いて過ごすことも増えたし、セイレンから勧められた本を少しずつ読み始めてもいる。
 今夜は何をしよう。本の続きをきりのいい所まで読んでしまおうか。そう思いながら、自室へと歩いていると、ふと視線を感じた。隠れるわけでもなく、むしろ、こちらへ意図的に向けたような肌にぴりっとくる気配。僅かに、嘆息。足先の向きを変えて、廊下の突き当たりにある窓へと歩いていった。
 コツコツと軍靴が鳴る。窓枠へたどり着き、足を止めたそのタイミングで。目の前の窓枠の下から、にゅっと片手が突き出された。

「……また来ていたのか」
「これでもお仕事だからね。久しぶり、で、おつとめごくろーさまです」

 呆れるように言うセニアに、笑い声が帰ってくる。
 窓枠にもたれるように手をかけて、窓から上体を投げ出す。窓枠の下に座り込んでいる、シーフの少女と目があった。にっと相手が笑う。
 シーフという職業に就いているくせに、もはや城へ忍び込んでいるのを隠そうともしない彼女に、もはやセニアは怒る気も、咎める気も失くしていた。シーフの少女の笑みに微苦笑を返し、窓から流れてくる風に自身の長い菫色の髪を預ける。
 今宵は風が気持ちいい。ここに留まる理由を、そう自分に納得させた。

「私がここに帰る度に貴女を見るが、それはたまたまなのか? それとも、滅多に帰ってこない私と遭遇するほど頻繁に、この城に忍び込んでいるのか?」
「これはこれは、何というお言葉を。愛しいお姫様に会いに来ております、って言ったら?」
「城内の警備をもっと厳しくするよう進言しておく」
「やめてよ、わたしの生命線なのに。ここ」

 どれだけ警備に力を注いでも、到底掴まる気がなさそうではあるけれど。セニアのそんな心中の声を聞き取ったのか、少女はへらりと笑ってセニアの顔を見上げた。

「……ん、んんんー? おやおやぁ? なーんか、いい顔するようになったじゃん、セニア」
「……? そうか? 自分ではわからないが……これでも一年以上も指揮を執っていたんだ、少しは騎士らしい顔つきになれただろうか」
「あー、もう、違っ! 違う! どーしてそんな風に考えちゃうかなぁ!」

 生真面目を通り越して滑稽にしか聞こえないセニアの返答に、少女は思わずうなり声を上げて否定した。その剣幕に押されたのか、鼻白むセニアに少女は即座に言葉を重ねる。

「わたしがそんなこと誉めると思うー? わ、た、し、が! もー。ホント、セニアって自分のことに疎いね。女の子の顔するようになった、って言ってるのにー」
「……女の子の、顔?」
「まったくもー……まだわかんないか、そっかぁ。ちょっと期待したんだけどな」

 未だに釈然としていないセニアと、仕方ないなと言わんばかりに苦笑して空を見上げる少女。二人はしばし、秋風に身を任せた。普段から話しかけないセニアは元より、少女まで黙り込んでしまったので、二人の間に流れる音はリィンリィン、と、鳴く鈴虫の声だけだった。
 それでも、その空間を、セニアは以前ほどは息苦しく感じなかった。セイレンよりも早く心を許していたこの少女が相手だから、というのもあるだろうが、それよりも、こういう時間の過ごし方を学べたということが、大きかったのだろう。

 鈴虫が若干大きく鳴き始めた。
 頭の後ろで組んでいた腕を解き、空からセニアへと、少女は視線を移す。急に目が合い、セニアは首をかしげて少女を見返した。
 少女は、窓枠の真下から、窓枠の右壁に沿うようにして立ち上がる。

「……どうした?」

 少女と目線の高さが同じになる。「もう帰るのか」という言葉を、セニアはすんでのところで飲み込んだ。
 忍び込まれた側が言う台詞ではない。この城の主の一人として、何と言う体たらくか。

 心中でそんなことをセニアが思っていることを知ってか知らずか。少女は、しっ、と小さく声を上げた。唇に添えられた少女の指に、セニアは訝しげに眉根を寄せる。天真爛漫な笑顔が似合ういつもの少女とは違う神妙な空気を纏った少女に、セニアは次の句が継げずに、ただ少女の指の感触がリアルに感じた。

「最近、少し外の様子がおかしいの。身辺に気をつけて」
「……外?」

 少女の声は可聴ぎりぎりの音量だった。耳を澄ませなければ聞こえず、これならば中庭で今尚啼いている鈴虫の声のほうが余程大きい。
 先の声と同じトーンで聞き返したセニアに、少女は小さく頷く。

「外。うちの系列でもまだわかんないみたいだけど、それだけになんかヤバい気がするんだよね」

 うち。その単語が示すものは、シーフである彼女が属しているシーフギルドに他ならない。国から認められてはいるものの、その内実はとても陽にあたることはできない活動が多い。少女のように生きるために窃盗を働くことも厭わず、シーフギルドの派生ギルドに当たるアサシンギルドなどでは、国から容認されているにも関わらず、その活動項目から殺人という二文字が消えない。人の道に反するというのなら、国の認可など取り消してしまえばいいものの、もうずっと長い間それが放置されて罷り通っているというのだから、アサシンギルドの「上客」に属する身分の人間も簡単に想像がつく。
 それが故に。様子がおかしい、と聞かされて、アサシンギルドが動き――――それをわざわざ伝えに来たということは、我が身への暗殺でも依頼として舞い込んだのかと思っていたけれど、どうやら、話はそうも単純ではなかったようだ。

「系列以外の組織のことも、わかるのか?」
「蛇の道はなんとやら、と言ってね。路地裏、地下道、果ては殺人現場から汚職広場まで。暗部はわたしたちのテリトリーなんだ。だからこそ、そこに何の義も通さずに入ってきたヤツがいたのなら、嫌でもわかるよ」

 少女がぺろりと自身の唇を舐める。その様は、ぞっとするほどの色気を孕んでいて、セニアはたまっていた生唾を嚥下する。その音は、周りで鳴り響く鈴虫の声よりも遥かに小さいくせに、嫌に耳の奥に響いた。

「目的や、活動場所は?」

 虫の声にかき消されそうな自分たちの会話を、セニアは聞き漏らさないように必死に拾う。

「不明。わかったら、『外』なんて言わないよ。うちの上部なら何か掴んでるのかもしれないけど、わたしみたいな下っ端はこれ以上はさっぱり」

 セニアの中に、心当たりが一つぽつりと浮かび上がる。
 しかし、あの話はもう半年以上も前だ。あれから調査員を数名向けてみたものの、何の報告も上がっていない。気にするだけ無駄だろうと思って、セニアは一つ頷いた。

「……そうか」

 少女が自らに語ってくれた理由を察し、セニアは窓枠から身を引いた。そして、懐に手を突っ込み、軽装の内ポケットに仕舞い込んでいた財布から銀のコインをいくつか掴み、窓枠へと差し出した。

「目的も対象もわからない以上、騎士団は動かせないが、忠告は受け取った」

 少女は差し出された銀貨とセニアの顔を二往復ほど見比べ、銀貨を受け取った。そして、やわやわと銀貨を指の腹で何度かこすりつけて、ピン、と、セニアの鼻っ面めがけて弾き返した。
 急に飛んで帰って来たコインを空中で掴み取り、セニアは邪推の声を上げる。

「っ、急に何をする!」
「んー、や。わたし別に情報屋じゃないしね。ただのしがないコソドロだし? わたしみたいなのにそんな高価なコインなんて肌に合わないって」
「ならば尚のこと受け取ればいいだろう。一月は悪事を働かなくてよくなるだろうに」
「んー、それはそうなんだけど、ね」

 壁から背を離して、少女はポニーテールを隠すように茶色のバンダナを頭に巻きなおした。目の前に立っているのに、すっと少女の気配が薄れる。目を凝らして、少女の後姿を見つめる。そんなセニアに、少女は振り返って笑いかけた。

「お金もらうために教えたって、思われたくないしね」

 そう言って、壁に体をくっつける。
 刹那、セニアが注視しているその最中に。彼女の気配は忽然と、中庭から消え去った。

「……まったく」

 嘆息、一つ。中庭にはただ鈴虫が鳴いて、気持ちのいい夜風が吹いている。自分は今、その空間に誘われて窓へ来ただけ。そろそろ、自室へ戻ろう。セイレンから借り受けている本の続きを読もう。

 ――――『外』、か。
 思い出すのは、半年以上前に一度だけセイレンから受けた報告。シュバルツバルト共和国との国境付近の川を越えて来た密入国者が数名いる、という、簡素な内容だった。あの付近には古から放置された荒城、グラストヘイムしかない上に、その後の報告すら上がってこなかったため気にしていなかったが、あの少女の言ってきた言葉に該当する自らの情報はそれしかなかった。

 気にしすぎ、だろう。久しぶりに会えた少女との後味が、どうにも悪くなる。
 開け広げていた窓を閉める。ごちる相手もいなくなったセニアは、菫色の髪の毛を翻し、窓枠から背を向けた。
 ここへ来た時に通った廊下を歩きながら、行き場のなくなった銀貨を右手でこすり合わせるようにして弄ぶ。

 そして、名残惜しげに一度、窓へと振り返った。

「私もできれば、悪事なんて働いてほしくはないのだが、な」
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by akira_ikuya | 2011-06-16 23:48 | 二次創作


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